とはいえ、別段勉強なんてする気は全くないのですが。
歴史についての戯れ言をちらほらと。あくまで、私が思っていることですので、苦情はご遠慮下さい。
まずは、仮定条件下における歴史の流れについて。
私自身は、「もし~であれば」という仮定は大好きなんです。その後、何が起きてどういう風になるのか考えると楽しくなりませんか? 多数の人が、様々な判断をして今の世界があるわけで。
例えば-非常にミニマムな話になりますが-私がこのブログを始めるのが1日早ければ、もしくは遅ければどうなっていたでしょうか。記事の数は変わっていますし、恐らくは記事の内容も異なっている可能性もあるわけです。私の物事に対する捉え方や考え方も変わっていた可能性があり、ということは、ブログに限らず実生活においてもまた別の生活になっていたかもしれません。
さらに、拙い文章ながらもこのブログを読んで頂いている方の、物事に対する捉え方や考え方にも影響を与えている可能性があるわけですよね。(もちろん、私も様々な方のブログを拝見させてもらって、色々な影響を受けたと思いますよ)
ちょっと話が逸れてしまいましたが、そういう風な考えですので「もし~であれば」という事を考えるのは大好きです、私は。歴史に限ったことではないですが、「~なんじゃないかなぁ」という仮定条件を元に推測なりを進めていかないと、社会って進んでいかないと思うんですよね。科学の実験なんかもそうなんじゃないかなぁ、と私は思うんですけどね。
歴史っていう学問に関しては、特に仮定条件って言うのが大切になるのではないでしょうか。
また例え話になって申し訳ないですけど、邪馬台国がどこにあったのかで、九州にあったとする説と、近畿地方にあったとする説の2つあるわけではないですか。大きく分ければ、の話ですけど。で、後から出てきた主張(私はどちらが先か知りませんが)を唱えたって人は、「もし九州になかったとしたら~」と思って資料を基に別の説を唱えたのではないでしょうか。
で、今の歴史の教育に関して。
年号と事件を暗記させるだけだったら、本当に「歴史の勉強をした」と言えるのかな。大切なのは、歴史上起こった出来事が、その時に生きていた人々にどういういうに受け入れられたのか。その結果は、また別の出来事の原因となるわけですから、それに対しどのようなことをしたのか。その結果・・・、と考えると、ずっと歴史って繋がっているんですよね。
だから、歴史の勉強で大切なのは、
「いつ」「何が起こった」
よりも
「何が起こり」「そしてどうなった」
という事の方が大切なんじゃないかなぁ、と私は思うんですよね。
まぁ、教師がそういう教育をしたくてもできないのが実状なんでしょうけどね。
なにより腹立たしいのが、第三国の顔色を伺いながら歴史の教科書を作らなければならないという点。特に近代以降に関しては、某K国と某T国が教科書の検閲をしているようなものではないですか。もっとも、あの2国が検閲しなくても日本国内の市民団体なるものが、検閲を行うでしょうけど。で、自分たちの意に添わなければ、自分たちの意に添わせるかのごとく、教科書の書き換えを要求する。特に太平洋戦争に関する記述は、客観的な事実などよりも、日本がどんなに悪いことをしたかを強調する内容になってしまっています。
日本は平和でなければならない。日本が平和であるためには、周辺国のご機嫌を伺わねばならない。だから学校で教える歴史は、日本が全て悪かった。これまで戦争に勝ったことは教えません。だから、日本に侵攻しないでね。と言っているようで仕方がないのですけれど。
戦争を避けるには、正しい歴史と正しい知識が必要なんですけどね。その辺を理性的に捉えられない人が多いばかりか、そういう人たちが声を大にして歴史に関わるものだから、歴史が歪んでいくのだと思っているのですけど。
最後に一言。
歴史教育に関して、「第三国の顔色を伺いながら~」と記述しましたが、別段国粋主義者ではありませんので。むしろ、「愛国心」とか声高に叫んでいるような人たちとは関わりたくないと思っています。「愛国心」という言葉を使う度に、その人に対する評価を下げていますから。